『ETA、5分。ETA、5分。CPA』
一日の始まりにけたたましくアナウンスされるのは無機質な声。心肺停止の患者が五分以内に到着するという旨だ。
桜木勇人は強制的に脳味噌に電源を入れ、救急搬入口へと足を向けた。瞼がとても重い。視界に靄がかかっている。そう感じてしまうのは、睡眠時間が十数分に満たないからだろう。当直室から灰色のスクラブを着れば、救急医スタイルの出来上がりだ。といっても勇人は専門医ではなく初期研修医にすぎない。
医師としての仕事を始めてまだ数か月。何なら救急科を回り始めたのはつい最近のことだ。
「おつかれさま、桜木くん」
「……お疲れ様です」
道中、合流したのは指導医である天ヶ崎恵。6つ上の女医は瞼を擦りながらも背筋をシャンとして勇人の横に並び、勇人の背中をポン、と叩いた。
「もう当直には慣れた?」
「ピッチがならなければもっと快適に寝られたんですけど」
勇人は恨めしそうに胸ポケットに突っ込まれたPHSを見た。二十分に一度は鳴り響いて微睡む勇人をいつ何時でも起こす極悪犯だ。
「慣れるまで時間かかるよね~!」
勇人以上にピッチに連絡がかかってきて、眠れない当直をしている恵はケラケラと軽く笑った。目の下にはクマができているが、それほど辛そうには見えない。
「こんなのに慣れるのはちょっと……」
「どの科に行っても当直はこんなもんだよ~」
勇人の死にそうな顔を横目で見ながら恵はもう一度声をあげて笑った。
やがて救急搬入口につけばそこから入る朝日が目に突き刺さる。睡眠不足の眼には突き刺さるそれに勇人は思わず瞼を完全に閉めた。
「5分だし、もうすぐで着くんじゃないかな?」
「今日こそは平和な朝だと思ったんだけどなぁ……」
「桜木くん、それフラグだよ」
「ふあぁ…………っふ」
遠くで救急車の音がなっている。微かに聞こえるそれに耳を塞ぎながら勇人はあくびをして脳に酸素を送る。
使い捨てのマスクとゴム手袋を付ければ迎える準備は既に完了だ。
「救急車からの心マの受け継ぎは任せたよ」
「了解っす……もう何度もやりましたからね」
勇人は手を組みながら心臓マッサージのイメージトレーニングをする。某有名アニメのマーチを心の中で口ずさめば適切なリズムだ。
勇人はこれまで何度も救急車の受け入れをして、何度も救命に取り掛かっていた。医療ドラマではほとんどの病人は息を吹き返し、笑顔で退院していた。
しかし、現実はさほど甘くない。
どれだけ心臓マッサージをしたところで、息を吹き返さない人はごまんといる。腕が悲鳴をあげようとも心臓マッサージは止めない。心電図の波形を見て半ば諦めだとしても、目の前の人を救うために必死に心臓マッサージをし、時と場合に応じてアドレナリンを入れたり、電気ショックを行ったりする。
外傷であれば創部の洗浄だったり、カテーテルで出血部位を塞栓したり。
色々な手技を行うが、どれほど手を尽くそうとそのまま亡くなってしまう人はいる。勇人は理想と現実にどうしようもないギャップを感じていた。
「天ヶ崎先生はなんで救急に進んだんですか」
「どうしたのいきなり」
色々なことを考えていた勇人は不意に恵に話しかけていた。髪を後ろで一つに結びながら急に声をかけられた恵は驚いた表情を見せた。
「いや、なんというか……」
「どうしたの、悩み?」
「まぁ、悩んでいるっちゃ悩んでますけど」
勇人は一つ大きくため息をついた。
「なんでこんなに自分の身を削ってボロボロになってまで、人を救う職業になりたかったのかな……って」
ほとんど最後の方は言葉になっていなかった。しかし勇人の瞳から思わず溢れ出る涙がすべてを物語っていた。
「俺がボロボロになりながら助けたって、どうにもならない人がいるのに……こんなはずじゃなかったのにっ……」
医師として失格な内容の言葉だ。しかし言わずにはいられなかった。
救急車のサイレンが近くなっている。あと一分もたたずに到着するだろう。
勇人は搬入口に足を向けるが、進まない。
涙が邪魔して前が見えない。
「そうだね……」
恵は勇人の目の前に立つ。嫌なことから勇人を匿うように。見たくないものから勇人を防ぐように。勇人が視線をあげれば優しい表情を浮かべた恵がいた。
「たしかに私達がどう手を施しても助からない人はたくさんいるよ」
まるで泣きわめく子供に話しかけるように。優しく勇人に話しかける。
「でも、運ばれてきた人を助けるのは、私達以外誰にもいないんだよ」
しかしその眼光は鋭い。射抜くような視線に、勇人の涙は一瞬で引っ込む。
「桜木くんが動かなかったら、運ばれてくる人は絶対に死んじゃう。でも桜木くんが動けば、少なくとも生きる選択肢が増えるの」
どっちが良い? という恵の言葉に勇人は震える声のまま「……後ろです」と答えた。
恵は「よし」と答えて勇人の前を離れた。朝日が目に突き刺さると同時に、サイレンを消した救急車が入ってくるのが見えた。
「ひとまず、あの人を助けよう。もっと悩むのはその後で!」
「……はいっ」
やっと、足が動いた。目元を拭いながら救急搬入口に早足で向かえば、勇人は心臓マッサージを救急救命士から受け継ぐ。色々悩むことはあっても、今悩むべきことではないのだろう。
ひとまず、最善を尽くして目の前の人を助ける。
簡単には気持ちの整理はつかないけれど、いつの間にか勇人の視界にかかっていた靄は綺麗さっぱり取り払われていた。
こんにちは。医学を専攻する物書きの端くれ、荒木るんどです。ゆくゆくは全米を超えて全世界が涙する小説を書くのが今の目標です。