残暑が厳しく、寝苦しい夜だった。夏が終わろうとしていた。
 カレンダーを見る。今日は八月三十一日。

「明日から九月、か」

 そこで、ふと私は十五年前の今日を思い出す。夏休み最終日の夜をだ。
 十五年前。具体的な年齢を述べるのは差し控えるけれど、あの時の私は小学生で、それはそれは楽しい毎日を送っていたものだ。
 鬼ごっこに缶蹴り、お手玉にかくれんぼ……それに男の子たちに混じってのゲーム大会。

「はあ……」

 でも、いまの私には何もない。
 会社に勤め、毎日やりたくもない仕事を機械的にこなし、希望も未来もない日々。
 いっそあのころに戻れたら……。いや、そんなことを考えていても仕方がない。
 目をつむる。
 いまはただ泥のように眠って、明日からの仕事に備えるだけだ。
 おやすみ、私。
 さようなら、夏休み。

***

「おかしいな」

 翌日。私はスマートフォンの画面を眺めながらそう言った。
 今日は九月一日、のはず。
 しかし、スマートフォンの指し示す今日の日付は八月三十二日になっていた。

「壊れちゃったかなあ……」
 
 しかし、ありもしない日付が表示されるなんて、こんな壊れ方は聞いたことがない。
 うるう年だからというわけでもない。それは去年に過ぎてしまった。
 わけがわからない。
 さいわい時間の表示は正確なようで、それだけが救いだ。
 混乱する頭を無理やり落ち着かせる。九月が来ても来なくとも、会社には行かなければならない。
 帰りに、修理に持っていくことにしよう。
 修理代、高くつかないといいな。
 そう思いながら、私は家をでた。

***

 会社に行くと、門前払いを食らった。
 顔も知らない社員から告げられたのは、「部外者は立ち入りできません」という一言のみ。
 しかしそんなわけがない。
 私は社員証を見せたりして抵抗したけれど、それも意味をなさなかった。
 挙句の果てに警察を呼ばれそうになって、私はあわててその場を逃げ出した。
 いったいぜんたい、何が起きているのだろう。
 とつぜん予定を奪われた私は、ひとまず近くの公園に足を運ぶことにした。
 小学生のころの夏休み、よく友達と遊んだ公園へと。

***

 ベンチに腰を下ろす。

「はあ……」

 これから、どうしよう。
 いっそ、向こうから連絡が来るまでサボってやろうか。
 それで、連絡が来たらこう言ってやる。「よく確認もせずに追い出したのはそっちでしょう?」と。

「ふふ……」

 そんな想像をしていると、なんだか気分が少しだけ軽くなってくる。まるで夏休みが延長したかのような気分だ。
 子供たちの声が聞こえてきたのはそんな時だった。
 わいわいと、子供特有の甲高い声が公園に響く。
 子供たちは集団で、グループの内訳はこうだ。髪の長いポニーテールの女の子、眉毛の上で前髪を切りそろえたおかっぱの女の子、ぼろぼろのジーンズを履いた無邪気そうな男の子、そして……。
 あれ?
 そして、ようやくのことで私は気づく。
 あれは……私だ。
 肩下にそろえられたキレイな黒髪。
 邪気を知らない笑顔。
 一人が合図し、いっせいに駆け出す。鬼ごっこを始めるようだ。
 鬼役は私だった。
 いーち、にーい、さーん……と子供の私は数を数える。
 ご! とカウントし終えて、私は友達たちを追いかけ始めた。
 子供の私は、一人の男の子を必死に追いかける。
 しかし、いくら子供といえど、男の子の脚力に女の子の私が敵うはずもない。
 それでも私はあきらめなかった。
 あきらめずに、がむしゃらに男の子を追いかけ続けた。
 そういえば……と、私は今さらながらに思い出す。
 あの男の子は、私の初恋の人だ。
 思わず笑みがこぼれる。結局叶わなかった恋だけれど、それでもほほえましく思えた。
 子供の私が、ぜえぜえと息を荒くする。
 ずいぶん長いことその男の子と追い駆けっこを続けていたのだ。仕方がない。
 すると男の子はわざと歩調をゆるめて、私にわざと鬼役をバトンタッチさせた。
 そうそう。こんな優しいところに惹かれたんだよなあ。
 疲れている私を、いつだって気遣ってくれる。

「お姉ちゃん」

 不意に声がした。顔をあげると、そこにいたのはその男の子だった。

「へ?」
 
 とつぜんのことで、私はおかしな声をあげてしまう。

「どうしたの?」と男の子が私に訊く。
「どうしたの、って?」私は訊き返した。
「なんだか疲れてるみたいに見えたから」
「……っ」

 私は思わず言葉を詰まらせた。
 そっか、君にはお見通しなのか。

「うん、そうだね。私、ちょっと疲れてたかもしれない」
 私は続ける。「でも、もう大丈夫」

「そっか」
 男の子はほほえむ。「なら、よかった」

***

 目覚めるとそこはベッドの上だ。
 あわてて確認すると、スマートフォンは九月一日を示している。
 今のは、何だったのだろうか。
 夏のカゲロウが見せた一時の夢……なんてロマンチックな表現で事を片付けるにしては、今の出来事はあまりにも現実味を帯びすぎていた。

「まあ、でも、いいか」

 夢か現実か、それはわからない。
 それでもこの胸のほのかな暖かさは本物だと、それだけは断定できた。

「よし、今日もがんばるぞ」

 私はひとりごちる。
 出社までもう時間がない。私はあわてて準備を終えると、家を飛びだした。
 駅までの道をひたすらに駆ける。
 しかし日ごろ運動不足なためだろうか、すぐに息があがってしまった。
 立ち止まり、ぜえぜえと息を吐きながら呼吸を整える。
 情けない。一度はあたたまった気持ちが、ふたたび冷めていくのを感じる。
 もう、このまま休んでしまおうか。そんな思いが眼前をすうっと横切った。
 そんな時だった。

「大丈夫ですか?」
 
 ふと、声がした。なんというか、懐かしい声だ。
 優しくて、いつだって私を助けてくれて、いつだって私を気遣ってくれたあの声。
 ああ。
 君は、いつも私に優しくしてくれるんだね。今も昔も――もしかすると、これからも。
 私はその声に答えようと、ゆっくりと、それでもたしかに顔をあげた。
 さようなら、夏休み。
 おはよう、私。